愛しい愛しいこの子は、私の罪の証なのだ。



たとえどんなに辛くても、私が選んだ道だから





 私には4歳年上の兄がいる。名前は秋人といって、その名のとおり、秋に生まれた。
 兄は私と違いなんでも出来た。勉強も、スポーツも、必ず期待に応えていた。でも私は、兄が万能ではない事を知っている。

 夜遅くまで勉強していて、ほとんどその途中で寝てしまっている事も。
 どんなスポーツもできるように、毎朝走っていて、2時間ぐらい筋トレしている事も。

 全部、知っている。


 兄は眉目秀麗な人だったのでよくモテたらしいが、私が見たところ、彼女は作っていないようだった。なぜわかるのかというと、兄は休日は必ず家にいて私と話をしているし、放課後も寄り道もせず家に帰るらしい。そして家に帰ってきたら、コンビニぐらいにしか出かけない。密かに付き合っていたかもしれないが、とにかく、べったりくっついているような女性はいないようだった。
 兄に、私なんかといないで友達と遊んだら?と言った事がある。彼は静かに笑って答えた。
「俺は、冬香といたいんだ」
 私は純粋に嬉しくて笑った。
 その後に兄が言った。
「冬香が大好きだからね」
 私は言った。
「私もお兄ちゃんが大好き」
 そして二人で笑いあった。
 私と兄は仲がいい。二人で遠出すると、恋人に間違われるくらいに。親といるより兄といる時間のほうが多かった。



 ――そう言えるのは、もう10年近く前になってしまう。兄が大学に行くために家を出たからだ。そしてそのまま働いてしまい、家に帰ってこなかった。
 住む所が変わったからといって、仲が悪くなったわけではない。ただ、昔ほど、べったりとしていた兄妹じゃなくなっていた。でも、まだ親よりも仲のいい私は、兄の様子を見に行く事に決定されていた。別に行きたくないわけではない。むしろ兄がどうしているか気になっていた。でも、兄に何にも連絡しないで行くというのが嫌なのだ。両親曰く、「兄を驚かしてみたい。そしてその感想を聞かせろ」という事だそうだ。これでもし兄に恋人がいて、同棲していたりしたらどうするのだ。

 なんだかんだと駄々をこねた私だが、結局は行く事になるのだった。







 兄はマンションに住んでいた。それがなんだか綺麗で、高いところだというのが一目でわかる。
 とても入りづらかったが、入らなければ話にならないので、おそるおそる中へと足を進めた。
 兄の部屋は4階だと管理人が教えてくれ、少し安心した。これで最上階とか言ったら、本気で兄の職業を疑うところだ。
 ドアの前でひとつ深呼吸をしてベルを鳴らす。すると、思ったよりすぐに相手が出た。
「はい。どちら様ですか?」
 兄だ。
「あ、お兄ちゃん私、冬香だよ」
 そう言うや否やがたがたと物音がして、兄が勢いよくドアを開け放った。危うく顔を打ち付けるところだった。
 ドアを開けたまま、口を開けてぽかんとした兄は、なんとも新鮮だった。
「久しぶり、お兄ちゃん」
 その言葉で我に返った兄は、「久しぶり」と言って私を中に通してくれた。
 兄の家はなんともシンプルだった。生活に必要な物しか置いていないようだった。それを見て、実家にいた頃の兄の部屋も、こんな風だったのを思い出す。
 兄は台所からホットココアを淹れてきてくれた。
「どうして急にきたんだ?」
「お母さんとお父さんが様子見て来いって。連絡しなかったのは、お兄ちゃんを驚かしてみたかったからだって」
 ココアを受け取りながら言うと、「なんだそりゃ」と言って笑った。その笑顔は昔と変わっていなくて、とても安心した。
でも、その笑顔は次の瞬間には消えていた。
「今日はここに泊めてね」
「え……」
 あからさまに困っていた。「いいよ」と言ってくれるとばかり思っていた私はショックを隠せなかった。
「だめ?」
「だめっていうか……」
 はっきりとしない兄を見て、私はふとわいてきた疑問を言った。
「もしかして、恋人がいるとか?」
 兄は慌てて言った。
「ちがう! 今まで彼女なんかいたことない!」
「ええ!?」
 これには私が驚いてしまった。別に相手がいないというわけではないはずだ。バレンタインの時は持って帰っては来なかったけど、ポストに何個か入っていたことがあるくらいなのだから。
「ほ、ほんとに?」
「ほんとだ」
 信じられずに呟いた言葉に、兄は当然だというように言った。
「何で?」
 ここまできたら誰でも思うだろう疑問を言った。それに兄は答えない。ただ、顔が少し強張った。訊いてはいけない事だったのだろうか。私はそれ以上何も言えなくなってしまった。








 どれくらいそのままだったのか分からない。沈黙を破ったのは兄だった。
「何でだと思う?」
 なぜ兄はそんなことを訊くのだろう。言いたくなかったのではないのだろうか。
 そのまま答えないのもだめだと思い、一番可能性がありそうな事を言った。
「誰か、ずっと思っている人がいるとか……」
 膝の上に置いてある自分の手を見つめて兄の答えを待つ。だが、兄は何も言ってこない。どうしたのだろうかと思い、 兄のほうに顔を向けた。



 ――兄は、ずっと私を見ていた。
 私は兄の目を見た瞬間、兄から目が背けなくなった。
 その綺麗な顔に笑みが浮かぶ。
「俺が誰とも付き合わないのは」
 兄が私に近付いてきた。私は兄を見つめたまま、少しも動けなかった。
「お前の所為だよ」
 そう言われたと同時に、座っていたソファに押し倒された。
 覆い被さってくる兄がスローモーションに見える。
 そこでやっと意識がはっきりとした。それと同時に疑問と恐怖が押しかかってくる。
「な……なんで……?」
 出た声は、自分でも驚くほどに、か細かった。
 その言葉に、兄はいっそう笑みを深くした。
「お前が好きだからだよ。……冬香」
 そう言った兄は、私の知らない男だった。







 起きた時、彼は隣にいなかった。台所のほうで音がする。
 シーツには、私の純潔だった証が残っていた。
 彼は私を優しく抱いた。何度も私の名を呼んだ。その顔は幸せそうだった。でも、終わったあと、彼は苦しそうな顔をして、 「ごめん」と言った。
 そんなこと言うくらいなら、やらなければよかったのだと言った。彼は顔を歪ませて、ただ、「ごめん」と、何度も繰り返した。


 ごめん。それでもどうしても我慢できなかったんだ。――と。


 起きようとすると、下半身に痛みが走った。それは間違いなく昨夜の行為を物語っていた。
 もう元には戻れない。








 リビングに行くと、彼の作った料理が並んでいた。何でも出来るのは知っていたが、料理も出来るのは初めて知った。
 彼は飲み物を持ってやってきた。
「のどが渇いただろ」
 確かにのどがからからで、私は彼からもらった水を一気に飲み干した。彼はそれを穏やかな顔で見つめながら「ご飯にしよう」と私を席へと促した。
 彼の作ったご飯は、どれも絶品だった。兄は私に優しく話しかけてくれた。

 私はただ、手と口だけを動かしていた。







 兄の家を出るとき、兄は最後にこう言った。
「ごめん」


 ごめん。それでも好きなんだ。――と。


 帰りの電車に揺られながら、私は眠気に誘われた。







 私が兄の顔を見る事はもうないだろう。
 私があの家に行く事もないだろう。








 だが、転機とは突然やってくるものだ。
「妊娠……ですか……」
「ええ。おめでとうございます」
 何もおめでたい事なんかない。だって私の中に居る子は……実の兄の子だ。







 私はあれから初めて兄の家に行った。兄は私を見ると唖然とした。それもそうだろう。あんな事があってくる人なんか普通は いない。
 兄は私を部屋に入れて、またホットココアを作ってくれた。
 ――甘くて、ほろ苦い味がした。

「どうしたんだ?」
 兄はあの日と変わらず優しい。
「子供ができた」
 兄は口を開けて呆然としまった。開いた口が塞がらないとはこの事か。
「え?」
 ようやく出てきた言葉は、その一文字だった。
「だから、子供ができたの。お兄ちゃんとの」
 今度は誰のかも言葉にした。兄は複雑な顔をした。
「ごめん。俺としてはすごく嬉しいんだけど……いや、喜んじゃいけないんだよな……」
 兄は兄らしくない、馬鹿げた事を口にした。しかも、本心から言っているらしい。
 私はさっさと本題に入る事にした。
「それで、どうするかなんだけど……」
「あ、ああ……」
 兄は一気に沈んだ顔をした。ころころ顔が変わって器用な人だ。
 きっと兄は私が堕ろすと予想しているんだろう。


 だが、私は――


「産もうと……思う……」
「……え?」
 兄はびっくりしている。それもそうだ。私がしようとしている事は、法律に反する事なのだから。
「だから、産むの」
「産むって……お前……」
「大丈夫。言わなきゃわかんないよ。まあ、シングルマザーって事になっちゃうけど」
 兄は息を飲んだ。
「産んで……くれるのか……?」
 そう。
 私が欲しかったのは、この言葉だ。
 私は満面の笑みを浮かべる。
「もちろん」







 その後、無事に元気な女の子が生まれた。親近相姦の末に生まれた子は、障害者が多いらしいので、ひとまずほっとした。
 兄は嬉しそうにその子を抱き上げた。その顔は、父親だった。
 戸籍上は父にはできないけど、確かにこの子の父親は兄なのだ。
 女の子でよかった。もし男の子で兄に似た子になってしまったら、いつかバレてしまうかもしれない。
「頑張ったな」
 兄は私の頭を優しく撫でてくれた。
 そして――

「ありがとう」

 誰にも聞こえないように、私の耳元でそう言ってくれた。
 そう、「ごめん」ではなく「ありがとう」と。

 やっと、私が一番求めていた言葉をくれた。







 きっとこれから色々な問題もあるだろう。
 それでも私はこの道を進むだろう。
 だって、私が選んだ道なのだから。








 愛しい愛しいこの子は、何が何でも守り通そう。
 たとえ、それがどんなに神に背くとしても。
 私の愛し子なのだから。






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