友人が机に突っ伏して言った。
「家に帰りたくない」
 彼女にしては珍しい言葉だった。
「何、親と喧嘩したの?」
「ううん、親とは良好」
「じゃああんたの嫌いな犬を飼うことになった」
「違う」
「じゃあ悪霊に憑かれた」
「微妙にあってる感じもするけど、違う」
 私はしばらく思案した。

「……で、結局何?」




予測不可能な事態





 友人の家に久しぶりに泊まることになった。彼女のご両親は今日はいないらしい。いつもなら両手を挙げて喜んでいる状況なのに、彼女はなぜ嫌がっているのだろう。
「朝美、何があっても絶対帰らないでね、帰らないでね約束よ!」
「はいはい」
 何度も懇願してくる彼女に返事をしながら、玄関を開ける。
「おじゃましまーす」
 かって知ったる他人の家。私はそのままリビングへと向かう。なぜならいつもそこで紅茶を入れてもらうのが習慣みたいになっているからだ。
 リビングのドアを開ける。
 閉める。
 おそるおそる開ける。
 勢いよく閉める。

 何か、いた。

「……悪霊では、ないよね」
「一応」
 私はもう一度ゆっくりとドアを開ける。
 部屋全体が暗い。カーテンで閉めていても、少しは光が入るはずなのに、まったく入っていない。プロだ。部屋の明かりは数本あるろうそくのみで照らされている。ゆらゆらゆれるろうそくの火。そしてそこに立っているものがあった。
 全身を黒い布で覆っており、身長は私より十センチは高いんじゃないだろうか。顔は布のせいでよく見えない。(暗いせいもあるだろうが、たぶん明るくても見えないと思う)
「あー……おじゃましています。仁子の友人Aです」
 名前を言わなかったのは、うっかり言って呪われるのが嫌だったからだ。
「いえ、お邪魔しているのは僕のほうです。僕隣に住んでいる大久保といいます」
「はあ」
 なぜ、隣に住んでいるあなたがこの家に?
 そういう視線を仁子に向けたら、「私にもよくわからないけど、父さんが連れてきた」と答えてくれた。
 素晴らしいお父様だ。どこか病院に行ったほうがいい。
「おじさんの計らいで、毎日晩御飯をご一緒させて頂けることになりまして」
「はあ」
 なぜかわざわざ説明してくれた。でも私が一番知りたいのは、おじさんがその話を出した状況なんだけど。
「じゃあ、私はこの辺で」
「朝美! 今日泊まっていくのよねそうよね!?」
 踵を返した私の腕を仁子がものすごい力でひねり上げる。痛い痛い痛い! 関節が! 骨折れる!
「泊まるのよね? ね!」
「泊まります泊まります喜んで泊まらせて頂きます!」
 だから腕を放して下さい!
 仁子は私の返事を聞くと、満足そうに手を離した。痛い……絶対あざになってる……。
 腕をさすりながら、帰れなくなってしまった状況にため息を吐いた。
「じゃあ、私達、部屋に行ってるから」
「はい、じゃあ僕はここで準備がありますから」
 何の? とは訊けなかった。







 部屋に入ると、仁子は鍵をかけ、更に椅子と、どこから持ってきたのかレンガでドアを頑丈に固定した。
「これでよし」
「すごい」
 感心すると、彼女は私と向き合った。
「あれと晩御飯食べるようになって、もう五日が経つの」
 それはよく頑張ったなと思う。私は夕食の席にあんなのがいると知った時点で家に帰らない。何が何でも帰らない。
「お父さんに抗議は」
「したわよ!」
 私の言葉に、彼女は涙を流しながら力説する。
「あれとご飯を食べた、その日に内に言ったわ! 泣きながら言ったわよ! そしたらお父さん、「家族のことを思うなら耐えてくれ」って。絶対そうしなきゃ呪うとか言って脅したんだわ、あの黒魔術師!」
「黒魔術師……」
「ねえ、どうしよう、どうすればいい? 私もう耐えられないわ。死んじゃいそう、っていうか、そろそろ呪われそう」
 私を揺り動かしながら仁子は言う。酔うんだけど、これ。
「家出でもしたら?」
「嫌よ! なんで私があんなやつのために自分の家を出て行かなきゃいけないのよ!」
 ああ言えばこう言う。わがままな。
 軽い頭痛を覚えて頭を押さえる。と、ふと疑問がわいた。
「あれ、今日確かご両親いないんだよね?」
「そうよ?」
 今更なに、と彼女は言う。私は鼻につく香ばしい香りを嗅いで、冷や汗が出た。
「じゃあ、今日の晩御飯は……誰が作るの……?」

 仁子は沈黙した。ジュウジュウと何かを焼く音が聞こえてきた。







 リビングに入ると、もう我慢ならないのか、仁子が電気をつける。大久保さんは残念そうにしていたが、特に問題はないようだった。
「あ、ご飯できました」
 大久保さんはそう言うと、椅子を引いて立ち止まった。どうやら引いた椅子に座れということらしい。見かけと違ってレディーファーストだ。中身はいい男だ。でも見かけは黒い布を被った良くわからない人だ。(ちなみにローブなのかと思って調べてみたが、腕を通すところがどこにも見当たらないので、やはりただ布を被っているのだろうと判断した)
 私は彼が引いた椅子に座り、仁子もその次に引かれた椅子に座った。彼は私の正面に座った。ご飯を作ってもらって、できればあっちに行って下さいませんか? など、口が裂けても言えない。私はそんなことが言えるほど礼儀知らずではない。仁子と違って。
「あんたは隅で食べなさいよ!」
 仁子にそう怒鳴られた大久保さんは、おろおろとして、己で作ったドライカレーを手に持った。可哀想だ。どこの誰が見ても、悪者は仁子だ。
「仁子、ひどいこと言わない。大久保さん、お気になさらずそこで食べて下さい」
「なに言ってんのよ朝美!」
 怒鳴りながら勢いよく立ち上がる仁子。私は熱くなっている彼女に言った。
「や、はじめはびっくりしたけど何か大久保さんに慣れてきたし。このカレーだってすごく美味しいし」
 美味しいご飯を出してくれる人に、悪い人はいない。うん。
「あんた何普通に食べてるの? 死ぬよ呪われるよ!」
「普通のカレーだって。美味しいよ。大久保さん涙目になってるからその辺にしてあげなよ」
 大久保さんはフルフル震えながら、戸惑ったように水分の溜まった目で私達を見ていた。いや、実際は布に隠れて顔が見えないからわからないんだけど、鼻をすすってる音がするからきっと半泣き状態なんだろうと思う。
 私の一言に仁子は大久保さんを一睨みすると、不服そうながらも席に着いた。その様子に大久保さんはほっと息を吐き、目の辺りを被っている黒い布で拭った。
 仁子はじっとカレーを見詰める。そしてスプーンを手に取り、カレーを震える手で掬い取り、口元へと持っていく。手の揺れが激しい。そこまで嫌なのだろうか。
 ゆっくりと口を開き、ぱくっと一口食べる。
 仁子はその状態のまま数秒間静止した。おもむろにスプーンを口から離し、親の仇を見るような顔で、大久保さんに言った。
「うまいわ」
 声も低かった。しかし、大久保さんはそんな不機嫌丸出しの仁子が目に入っていないかのように歓喜に打ち震えていた。
「本当ですか? ありがとうございます」
「うん、本当本当、美味しいよ、これ」
 私も褒めると、大久保さんは涙を流し始めた。
「うう、ありがとうございます、生まれたはじめて褒められました。親には暗い子だぐらいしか言われたことがないので……」
 改めて可哀想だ大久保さん。
 哀れに見える彼に、私は言った。
「じゃあ、大久保さん、明るくなりましょう」
「あ、明るく、ですか?」
 きょとんとした顔で大久保さんは私を見詰め返した。
「はい。じゃあまずはその布取りましょう」
「ええ! と、取るんですか?」
 驚いている彼に私は訊く。
「はい。あ、何かそれ着けてるのって理由があったりしますか?」
「いえ、ただ落ち着くんで」
 大久保さんには悪いが、彼のご両親が言う通り、彼は暗いのだと思う。
「別にすぐでなくてもいいんですが。あと明るいところにも慣れるようにしましょう」
「うう……わ、わかりました……」
 冷や汗をかきながら、大久保さんは答えた。それに満足していると、今まで食べることに没頭していた仁子が声を出した。
「そうだ、朝美、あんたがこれから大久保さんと晩御飯食べなさいよ」
 え、と思い彼女を見ると、仁子はすごくいい笑顔をしていた。
「そうよ、そうすればすべて解決よ。あんた、今お姉さんと住んでるけど、そのお姉さん、彼氏と同棲はじめたみたいで、帰ってこないって言ってたじゃない」
「そ、そうだけど。帰ってくるかもしれないし」
「一緒に住むんじゃないんだから、いいじゃない。大久保さん、あなたも別に私の家じゃなくてもいいんでしょ?」
「はい、ただ晩御飯を一人で食べるのが寂しかっただけですので」
 うっ。
 大久保さんは期待の混じった表情で私を見た。と言っても顔半分は布で覆われているので、口しか見えないが。雰囲気でわかる。
 仁子を見ると、必死の眼力で訴えてきた。やめて、怖いそれ、瞳孔開きすぎ。
 正反対の表情を浮かべる二人に見詰められ、私はつい返事をしてしまった。
「はい……」







 まさかこのままなし崩しに結婚までいってしまうとは、このときの私は想像もしていなかった。





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