正直に言うなら俺は両親より姉貴に懐いていた。姉貴は俺にかまいまくったし、激甘だったし、両親は基本的に子供に関してそんなに関心を持つタイプではなかったから、当然と言えば当然である。ちなみに初めて覚えた言葉は「ねーちゃ」である。死にたい。
 今思い出しても小さい頃は姉貴といた記憶しかない。姉貴は俺を可愛がったし、何より、俺が姉貴から離れようとしなかった。姉貴は俺が欲しがったものはすぐに譲ってくれた。アメ、ショートケーキの苺、折り紙の鶴、青いビー玉、くまのぬいぐるみ。テレビだって俺が観たいのを一緒に観てくれた。
 それが変わるきっかけとなったのは、姉貴が中学に上がったときである。今まで同じ学校に通っていたのに、一緒に登校できなくなったということに俺はとてつもない寂しさを感じていたが、そんなことは当然言えなかった。さらに姉貴はバスケ部に入ったから、帰りも遅くなったし、朝練もあって顔を合わせる機会が減った。今まで一番姉貴の時間を独占していた自覚があったから不満いっぱいであった。これも仕方のないことだと思って我慢していたが、姉貴はついにやってくれた。なんと全寮制の高校に進学したのである。しかも俺がそれを知ったのは姉貴が家を出る二週間前、つまりもう進学をとめる手立てはなかった。
 何で教えなかったんだと問い詰めれば、姉貴は飄々と、訊かれなかったから、と言った。訊かなかったから教えなかったというのはどうだろうか。姉貴にとっては俺はその程度だったのだろうか。姉貴の一番であると思っていたのは自惚れだったのだろうか。姉貴が家を出てから悶々とそんなことを考えていたら、無性にイライラした。だから夜の街に出て喧嘩をするようになった。これが俺のヤンキー時代の幕開けである。








「いやあ、いつ聞いてもお前のグレた理由すげえわ。感動する」
「そう言ってる割に顔が笑ってんじゃねえかよ、あ?」
 口元を押さえてニマニマするダチの頬を両手で思いっきりひねるとぎゃあ! と叫んだ。
「いやん! 俺の顔が変わっちゃうー女達が泣くぅー!」  ダチは頬を押さえてすっている。
「ううー、ほっぺが伸びた気がする。お婿にいけなかったら責任持って俺をもらえよお前!」
「生まれ変わってお前が絶世の美女になったら考えてやろう」
「何でえらそうなの! 腹立つ!」
「何でお前はそんなにキモいの! 腹立つ!」
 真似して罵倒してやったら奴はゴロンと寝転がったので、俺もその隣に横になる。いい天気だ。屋上最高。
「んにしてもねー」
「あん?」
「俺いろんな奴にグレた理由とか訊くけどさー、ほとんどの奴は親と仲が悪いとか、ちょっと悪ぶってみたかったとかでさ、姉ちゃんがかまってくれなくなったからグレたっていうのは初めてだわー」
「うっせえ黙れ。仕方ないだろ、俺の親代わりが姉貴だったんだ」
 小さい頃から俺の面倒を見てきたのは姉貴である。俺の公園デビューも親とではなく、姉貴に連れられてだった。お袋はその頃せんべい片手にサスペンスドラマを見ていた。放任にもほどがある。姉貴が社交性を上げるためにと連れて行ってくれなかったら、俺は公園デビューなどというものをせずに成長したはずだ。
「ふーん、ま、人それぞれだもんねえー」
 面白いもんだ、と呟いて、隣の男は陽気に誘われて目を閉じたので、俺もそれにならって惰眠をむさぼることにした。








 今日も今日とてバイクで走り回って帰ってきたら、玄関を開けた瞬間姉貴の枕が飛んできた。
「いきなり何すんだよ!」
「何すんだじゃないわよ! 今何時だと思ってんの時計が読めないほど馬鹿なのあんた! ブンブンブンブンうるさくて寝れたもんじゃないのよお分かり!」
 今度はスリッパが飛んできた。痛くはないがイライラする。
「あの音がないと乗った気がしねえんだよ!」
「そういうこと言ってんじゃないのよ! 人様の迷惑を考えなさい!」
 腰に手を当てて説教する姉貴は、とても先日倒れた人間とは思えない。姉貴が倒れて以来、家で音楽を聴くのはやめた。代わりにダチの家に押しかけている。ちなみに今日は、そいつの家に行った後に、バイクを乗り回しての帰宅である。
「んなの考えられっかよ」
 鼻で笑って自分の部屋に行こうとするが、姉貴に腕をつかまれて阻止された。明日仕事だって言うのに元気なもんだ。
「離せよ!」
「話聞くってんなら離してあげるわよ! とりあえずそこに座りなさい」
 そこ、と指差すのは廊下である。せめてリビングでないのか、と思ったが、姉貴が貧乏ゆすりをはじめたので、仕方なく座ることにした。ケツが冷たい。姉は俺の前に腰を降ろした。
「毎晩毎晩、あんたね、社会人になったら絶対今の私と同じこと言うのよ、『ブンブンブンブンうっせえんだよ!』って」
「今はまだぴちぴち10代」
「だまらっしゃい!」
 言葉を怒声でさえぎられる。20を過ぎてから姉貴は年齢の話題に敏感になった。今でこれなら、三十路になったらもっとガミガミになるのだろうか。
「あんた達と違ってこっちは金稼がなきゃやっていけないのよ、じゃなきゃホームレスよホームレス、切実。ってのを三軒先のおばさんに言われた私の気持ちがあんたにわかる?」
 ババアは遠まわしにねちねち攻撃してくるから嫌だ。直接俺に来い。
「ちなみに私はこの言葉には賛同なんだけれど、それはいいとして、もう少しどうにかなんないの?」
 姉貴がため息を吐いて俺の頭を小突いてきた。昔から俺を叱るときの姉貴の癖だ。姉貴は大概弟馬鹿だから、絶対俺が痛がるほどに攻撃できないため、本当にコツン、と優しく当たるだけである。
 だが、実はこれが一番俺には効いたりする。小さい頃からの刷り込みもあるのだろう、実に居た堪れない気持ちにしてくれるのだ。
 それでも謝る気にはなれないのでブスっとしていると、姉貴は俺の頭をぐりぐりと撫でまわす。
「ちょ、やめろよ!」
「あーもー、何でこうなっちゃうのかなあ。私頑張って育てたのに」
 子供が子育てをする時点で間違っている。本来俺を叱るはずの両親は現在仲良く爆睡中だろう。
「憎たらしいことしか言わなくなっちゃうし。小さい頃はあーんなに、私のあと追いかけてきたくせに」
「この歳で、お前のあとを追い掛け回せと?」
「あら、お姉ちゃんは全然構わないんだけど」
「嬉しそうな顔すんなむかつく」
 好きにさせていた手を振りほどいて今度こそ自分の部屋へ向かう。姉貴ももうあきらめたのだろう、俺のあとに続いて自分の部屋に戻っていく。俺が部屋のドアを開けて入ろうとしたとき、姉貴が「あ、そうそう」とドアから顔をのぞかせた。
「あんたの友達の、タッチーが、あんまり俺の家に避難にくんなって言ってたわよ」
「は?」
「あんまり迷惑かけるんじゃないわよ。じゃ、おやすみ」
「は、ちょ、待てよ!」
 慌てて自分の部屋のドアから手を離して隣の姉貴の部屋に駆け込む。姉貴はすでにベッドにもぐっていた。早い。
「何よー、もう眠いのよー」
「何でお前はあいつと連絡取ってんだよ!」
「あいつってタッチー?」
「そう!」
 あー、うーん、と相当眠いのかごにょごにょ姉貴は呟きながら、ぼそぼそと答える。
「何かー、あんたのケータイ見たとか言ってた。んでー、メールがきてぇ、何かそんな感じぃー」
 ついに睡魔に負けたようでそのまま姉貴の規則正しい寝息が聞こえてきた。
 ……そういえばあいつ、この間俺のケータイいじくってにまにましてやがった……。
 俺の学生証に入っている姉貴の写真を見て(姉貴が勝手に入れたのであって断じて俺が入れたんじゃない)超タイプー! とも騒いでいたな。なるほど。
 俺はとりあえず明日奴を殴ると決めて、姉貴の部屋を後にした。








シスター・コンプレックスの場合







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