弟との年の差は4歳である。弟というものができることが嬉しくて嬉しくて、毎日早く生まれろ早く生まれろと母のお腹に呟いていた。そのせいか予定日より8日早く生まれてしまったが、元気に産声をあげているその姿を見て、初めて愛しいという気持ちを知った。
 というのになぜ今はこうも憎しみばかりが芽生えるのだろう。
「うるっさいのよこのアホ弟!」
 叫びながら弟のドアを勢いよく開ける。するとドアにより遮られていた音量が勢いよく耳になだれ込んできて、一瞬めまいがした。こちらに気づいてない後姿に蹴りを入れると、前に倒れ込んだ弟は顔を上げてこちらを睨み上げてくる。
「何しやがんだよこのアマ!」
「やかましい! 今何時だと思ってんのよ深夜1時よすでに次の日なのよお姉さまは5時に起きなきゃいけないのよお分かり!」
 息継ぎしないで言い切ると弟は顔をしかめ、鼻で笑った。
「知るかよ」
 可愛くない!








 正直可愛がりすぎた覚えはある。初めて覚えた愛情をひたすら注いでいたのだから、それはもう、親もあきれるほどの溺愛だった。靴紐も毎日私が結んであげたし、子守唄も歌ったし、本の読み聞かせもしたし、自分のおやつもお気に入りのぬいぐるみもあの子が欲しいと言えばよろこんで差し出した。自立を邪魔したというのは否定しない。そのとき同世代の子より多少不器用だったのもおそらく私が影響していたと思う。でも構いまくっていたのでそれはもう、母親より私に懐いた。ねーちゃ、ねーちゃと舌足らずにどこに行くにもついてこようとした弟は天使のように愛らしく、私の弟愛に拍車をかけた。
 そんな弟は気づけばジャイアンになり、中学に上がるとヤンキーに進化していったのである。現在17歳、未だ現役である。
 皆まで言うな、原因が私にあるのは自覚している。育て方を間違えていた。何でも与えられ、何でも許してもらえていた弟は、それを当然のことと思い成長してしまった。
 私のエンジェルはなぜ消えたのだろう。やはり薄汚れた大人になってしまったから私の目に映らなくなったのだろうか。
 遠い目をしてそんなことを思っていると同僚と目が合い、気遣わしげに「顔色悪いぜ?」と声を掛けられた。顔に出ていたのだろうか、大丈夫だと首を振ると、無理するなよ、と肩を叩かれた。ああ、人の心遣いがこんなに嬉しいなんて! 感動でお礼を言おうと立ち上がると目の前がゆがむ。あれ、と思うとそのまま身体が地面へ急降下。おいっ、という声が聞こえたが、それに反応することもできずにブラックアウト。やはり人間、睡眠はきちんととるべきである。








 目が覚めたら運が良いことにまだ一時間しか経っていなかった。よかった、これならあまり仕事の進みに問題はないはずだ。しかし同僚たちには多大な迷惑をかけてしまったはずである。21にもなって睡眠不足で倒れるとはみっともないことである。社会人、健康を一番に考えるのが大事である。だって人に迷惑をかけることになるのだから。
「あ、目覚めたか?」
 倒れる前に話をしていた同僚が顔をのぞかせた。反射的に謝る「すみません」
「いや、気にするなって。何かたぶん睡眠不足だろうって言ってたけど」
「いや本当、お恥ずかしい限りで」
 ひたすらヘコヘコするしかない。この話しぶりでは第一発見者である彼が私を仮眠室に運んでくれたに違いない。うん十キロする体重を運ぶのはさぞ大変だっただろうに。
「今日はどうする? 帰っておくか?」
「あーううん、何か寝たらめまいも治ったし、出るよ。仕事、残ってるし」
「無理しなくていいんだぞ?」
「大丈夫だって、ほら、顔色も良くなってない?」
「まあ、良くなったけど」
 しぶしぶ同意すると、体調悪くなったら言えよ、と気遣わしげにする同僚に感謝の意を述べる。デスクに戻ると数人から大丈夫かという問いかけがあったが、貧血で通しておいた。本当、心配をかけて申し訳ない。その分仕事で応えようと、パソコンに向き直った。








 さすがに残業はしないほうがいいと判断して今日は定時に上がらせてもらった。帰る途中、ついに前々から考えていたことを決断するときがきたかなあとぼんやりと考えた。
 家に帰ると父と母がお笑い番組を見ていた。いくつになってもお気楽な夫婦である。とりあえず眠らねばならないと思い、ただいまと言うだけでさっさと階段をあがった。基本放任主義の両親なので、特に何も言ってこない。自室に入ると一気に疲れが押し寄せてきて、そのままベッドに倒れこんだ。スーツがしわになる、と思ったが、明日は幸い休日である。しわなど明日なおせばいい。うとうとしていると扉の開く音がした。
「おい、何くたばってんだよ」
 仕事から帰ってきた人間に対する言葉ではない。この野郎と思い、目を開けると、お盆を持っていた。なぜ?
「せめて飯食ってからにしろよ。晩飯食ってねえだろ」
 確かに食べていないが、なぜこいつは甲斐甲斐しく私の元へ飯を運んでくるのだ。何か意図があるのかと、弟を訝しげに見ていると、そのままお盆を押し付けられた。中身はカツカレー。病人には少し重い食事である。
「ありがとう」
 何かあるにせよ、一応私にと持ってきてくれたようであるので、礼を述べると弟はむっつりとした顔で別に、と顔を背けた。うーん素直じゃない。
 重かろうがなんだろうがせっかく持ってきてくれたのだからとカツカレーを口に運ぶと弟が口を開いた。
「今日……」
「ん?」
「今日、家に電話があった」
「電話?」
「会社から、倒れたって」
 ……なんだって?
「おそらく睡眠不足だろうって」
 慌てて携帯電話の履歴をチェックしてみると確かに倒れた時間帯に家に発信している。涼しい顔をしていたが、同僚もいきなり目の前で人が倒れたことにパニックを起こしていたのかもしれない。
「あーうん、倒れたねえ」
 それしか言えず、カツカレーをもう一口口に含む。うん、美味い。
「大丈夫、なのかよ」
「大丈夫でしょう、ただの寝不足だし。寝ればいいだけだって」
 そう応えると、弟はうつむいた。
「悪かった」
「え」
 弟からふいに出てきた言葉に驚いてカツカレーから目線を変える。弟は顔しかめていた。
「俺のせいだってのはわかってるから……悪かったな」
 いつになく正直に謝る弟に呆然としてしまう。この子のごめんなさいを聞いたのはいつのことだろうか。少なくともここ数年は文句しか聞いていない。
 そのまま反応できずにいると、弟はそわそわとし出した。今更照れたのかと思ったが、どうも違うらしい。なぜなら弟は途方に暮れた顔をしていたから。この表情は昔見たことがある。私があげたぬいぐるみを弟が壊したときだ。とてもとても気に入っていたけれど、弟が欲しいというのであげたのに、壊すなんてひどいと私はわんわん泣いた。弟はそんな私に一生懸命謝って、今のような顔をして、確か、
「嫌わないよ」
 ぽろりと出てきた言葉に、弟はばっと顔をあげた。あ、もしかして今言葉を間違えた? そうだよ今のは「気にするな」とか「大丈夫」とか言う場面であって今の台詞はないよ自分!
 自分の言葉にあわあわと動揺してしまう。だって、だってあの表情はあの時のと同じで、あの時この子は確かに、確かに私に。
 混乱する私を弟はぽかんと見て、顔をそらす。
「そ、そう、か」
 それだけ言うとくるりと踵を返してドアへと向かうが、ふと立ちどまり、そのまま言った。
「電話の男、誰?」
「は?」
「家に電話してきた男、誰だよ」
 家に電話してきた男、というと。
「同僚だけど」
「……ただの同僚?」
「同僚にただも何もないと思うけど」
「……ふーん、ならいいや」
 それだけ呟いて今度こそ部屋を出て行った。何、え、もしかして。
「やきもち?」
 まさかあの弟が私に男ができるのが嫌だとかそんなこと。でも確かにあの反応はほっとしたものだった。隣の部屋から騒音は聞こえない。どうしよう、なんだか胸がいっぱいだ。
 ふと天井を見上げ思い出すのはあの日のあの子。
『きらわないで』
 そんなことを言う愛し子を、どうして嫌えよう。
「あーもう!」
 どうやら家を出る予定は先延ばしになるようだ。
 結局、私にとってあの子はいくつになろうと、可愛いことに変わりはないのである。








ブラザー・コンプレックスの場合







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