修二兄は引き篭もりだ。
 けれども彼は優しくて、
 私の憧れなのだ。



  思い出の帰る場所




 今日も私はチャイムを鳴らす。
「はい」
「由紀子さん、また来たよ」
「あらあら、いつもあんな子の為にご苦労様」
 由紀子さんはそう言うと、笑いながら玄関を開けてくれた。
 由紀子さんはこの家の奥さんで、若くて綺麗な人だ。年齢は母と同じだそうだけど、それ以上に若く見えるので、おばさんなどとは呼べず、私は彼女を由紀子さんと呼ぶ。
「お邪魔します」
「どうぞ」
 由紀子さんの言葉を聞いた私は、玄関に入って真っ先にある部屋へ行く。
「修二兄、入るよ」
「また来たのかよ」
 呆れながらも、彼は私を部屋へ入れてくれる。
「当たり前じゃん。ここまできたら頑張って皆勤狙うわ」
「俺の部屋でか」
「俺の部屋でだ」
 修二兄の言い方を真似ながら言ってみたら、彼は噴出した。その姿を見ると、彼はとても引きこもりには見えない。

 そう、修二兄は引きこもりだ。

 修二兄は私の隣の家に住んでいる、二十二歳の男性だ。
 私と修二兄は、所謂幼馴染という関係で、幼い私が修二兄に遊んでくれとねだった事で仲良くなった。
 私は修二兄を本当の兄のように慕い、修二兄も、私を実の妹のように可愛がってくれた。
 私の初恋は修二兄で、そして、その初恋は現在進行形なのだ。
 たとえ相手が引きこもりになろうとも。
「修二兄、いいかげん、部屋から出ない?」
「出ない」
「意地っ張り」
 何度も繰り返した問いを、今日も再びする。そこから私達の日常が始まる。
 私が今日あったことを話して、彼は私の隣でそれを聞く。
 それが私達の日常。






「ただいまー」
「あ、……お帰りなさい」
 私が修二兄の家から帰ると、両親はいつもよそよそしい。
 そりゃあ、娘が引きこもりの男の家に行くなんて嫌だろうけど。
「ねえ、恭子……」
「やめないよ」
 母さんの言いたいことがわかる私は、その言葉を遮って言う。が、それでも母さんは必死な声で更に言い続ける。
「でもっ、修二くんは……」
「やめないからっ!」
 そう叫ぶと、私は二階へと駆け上がった。後ろで母さんの声がしたが、私は何も答えなかった。
 わかってる。こんなこと、もう終わりにしなければいけない。
 だけど、私はもう少し。
 もう少しでいいから。
 彼と一緒にいたい。
「ごめんなさい」
 親不孝な娘で、ごめんなさい。






「修二兄ー、また来たよー」
「飽きないなあ」
「飽きません」
 そう言うと、私はいつもの定位置に座る。
 修二兄の隣。
 そこがここでの私の居場所。
 居心地のいい空間。
「恭子」
「なあに?」
「それなんだ?」
 彼の目線は私の手。
 そしてそこにはビニール袋。
 私は少し得意げに言う。
「ふふふー。今日はお菓子を持ってきました!」
「いつもはないじゃんか」
「いいからいいから」
 そうして修二兄にお菓子を渡してから、私も食べ始める。
 ほろ苦い、ビターチョコの味がした。
 私がチョコを半分以上食べても修二兄は何も口にしようとしない。
「食べないの?」
「気付いてるんだろ?」
 唐突な彼の問いに、私は目を丸くしたが、すぐににっこりと微笑んだ。
「うん」

 今日はけじめを付けに来たから。

「修二兄が何で外に出たがらないかも知ってる」
 外に出た修二兄に話かける私は、きっとおかしく映るから。
「修二兄が何で私にしか会わないのかも知ってる」
 それは私にしか見えないから。
「修二兄が何で何も食べれないかも知ってる」
 食べるための機能なんて、ないから。


 修二兄は死んでいるから。


「修二兄、私、一人でももう、大丈夫……だよ?」
 私がずっと修二兄を捕らえてた。
「家事も出来るようになったし」
 私の想いが重すぎたのだ。
「数学も得意になったし」
 彼を解放しなければ。
「笑えるようにも、なったんだよ?」
 あなたが死んでから、やっと外でも笑えたんだよ。
「だから」
 だから。
「もう、安心して眠っていいよ」
 さよならしよう、永久の別れを。
 修二兄は私の言葉を聞くと、大きな声で笑い出した。とても大きく、私にしか聞こえないその声で。
 数分経った頃、修二兄は笑い終えた。その後は静かに俯いた。
「お前が、望んだから、残ってたわけじゃ、ないんだけど……な」
 ポツリポツリと、寂しそうに、悲しそうに修二兄は声にする。
「俺は、俺の意思でここにいたんだ」
 それは、私の強すぎる想いの所為ではなかったと。
「俺は、ここにいたかったんだ」
 それは、修二兄の望みだったのだと。
 彼は、そう言っている。
「なんで残りたかったの?」
「聞きたいか?」
 聞きたい。何よりも、修二兄のその口から。今、聞けるうちに。
「それはな」
 心残りがあったから。
「心残り?」
「そう」
 修二兄に心残り。明るく綺麗に生きていた修二兄にも、死んでから、何か心に残ってしまったものがあるのだろうか。
「それは何?」
 私がそう言うと、修二兄は泣きそうな顔で笑いながら、指を指す。
 私を。
 そう、私を。
「修二兄の心残りは……わた、し?」
 戸惑いながら、出した声に、修二兄は答えた。
「そうだよ」
 相変わらずの表情のまま、彼は言う。
「恭子、お前が何より大切だった」
 泣きそうな笑顔。それがすごく愛しくて。
 私は彼に手を伸ばす。
 彼の手に触れようとする。
 そして、その手には触れられない。
 生きる者と、死した者の違い。
 それが堪らなく、悔しかった。
 愛してるのに、触れられない。愛してるのに、近づけない。
「恭子」
 静かに涙を流し始めた私の頭を、何かが覆う。
 修二兄の手だ。
 決して触れられない。その手は全てを透き通る。だけど、確かに感じる、彼の暖かさ。
 このぬくもりが大好きだった。
「恭子の気持ちを聞かせて」
 もうわかっているくせに。知ってるくせに。
「言ったら、もう、さよならなんだね」
「ああ」
 さようなら、今、あなたを解放してあげる。

「愛してる」

 誰よりも、何よりも、私はあなたが大好きでした。

「俺も愛してるよ」

 辺りが輝く。もう目を開けることも出来ないほどに神々しく、美しかった。

 私が最後に見たのは、彼の嬉しそうな笑顔だった。


「う……ああぁぁぁぁああぁぁぁあぁぁあぁあぁぁ!!」


 大好きだった。誰よりも、何よりも。
 大好きだった。彼の全てが。
 大好きだった。きっと、私の人生で、一番の宝だった。
 修二兄修二兄修二兄修二兄。
 修二兄。
 どうか、今だけ泣くことを許して。
 きっと強くなる。あなたに負けないぐらい強くなるから。
 修二兄。

 幼い頃から一緒だった。
 私のわがままを、苦笑いしながらも、聞いてくれた。
 物心つく前から、修二兄がすべてだった。
 いなくなってしまった修二兄の部屋。それを目の当たりにすると、一気に寒くなった。
 私は涙を拭って修二兄の家から飛び出す。
 走って走って、走りぬいて、そのあと家に帰ろう。
 母さん達に、ごめんなさいって、言おう。
 大丈夫、大丈夫。
 自分に言い聞かして走る。
 少し、笑えた気がした。








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