あ、猫だ。
 まだ2、3ヶ月ぐらいじゃないだろうか、子猫が私の足元にいた。甘えるように身体を擦り付けているところが可愛い。
 撫でてもいいだろうか、噛まれないだろうか。
 恐る恐る手を伸ばす。ああ、もう少し。
「平凡な生活から脱したくないか」
「いえまったく」
 条件反射で答えると、猫は私が伸ばした手に噛み付いた。い、痛い! 肉食獣め!
 見た目は可愛いのに、としょんぼりして猫を見ると、猫は満足げに仁王立ちした。本当に二本足で仁王立ちした。
 とっさにかばんの中を確認。くそ、デジカメも携帯電話もない。今こそ必要なときなのに! 優勝賞金10万円!
 あきらめきれずにきょろきょろ首を動かしていると、猫が今度は私をよじ登る。なにこれすごく可愛い。今すぐ誰か私を写真に撮って! いつもなら写真大嫌いだけど今なら喜んで撮られるよ!
 誰か誰か、と思うけれど辺りは静まりかえり、人っ子一人いない。もう少し時間が遅ければ三軒隣のキャバ嬢が出勤する時間だったのに。残念だ、彼女はデジカメを常に持ち歩いているという情報を掴んでいるというのに。ちなみにソースは近所の奥様。彼女たちの井戸端会議による情報網は素晴らしい。恐ろしい。
 猫が鼻息荒く私の肩に座った。ナウシカ! と思った私はきっと間違っていない。ジブリ大好き。
「どこを見ておるのだ馬鹿者が」
 母さん、生まれて初めて猫パンチを食らいました。痛くないんですね、これ。たぶんまだ子猫でそんなに爪が硬くないっていうのもあるんだけど、こう、ふにゅって、ふにゅってした。
「もう一回!」
「ええい、気持ち悪いわ!」
 喜んで頬を差し出すと、猫は両手をついて嫌がった。ああ、肉球が頬に触れている。最高。
 うっとりしているとついに猫が噛み付いてきた。ぎゃっ、と顔を離すと、私が動いた所為でバランスを崩した猫が回転して地面に着地した。さすが猫、顔面強打はしない。10点です。
「まず猫がしゃべることに疑問を持て!」
 ふー! と毛を逆立たせて猫が怒鳴った。あれ、威嚇されてるの私。敵とみなされたの私。なぜ?
「あー、強いて言うなら、もう少し少年期の高い声のほうがよかったなあ。明らかに低い成人男性の声だもん。嫌になっちゃう」
 やっぱ容姿に合わせた声でないと。子猫なら子猫らしい高い声でしょ、やっぱり。
「そこじゃなーい!」
 今度は尻尾で叩かれた。若いのに色々と技をお持ちですね、子猫ちゃん。
「猫が、しゃべっておるのだ、知能のない猫が、人間の言葉を使っているのだぞ?」
「飼い主がすごいんだろうねー」
「そうじゃないだろう!」
 素直に感心して言ったのに、猫の求めた反応ではなかったようである。猫は威嚇をやめ、ため息ひとつ吐くと、ちょこんと座った。子猫は座るしぐさすら可愛い。
「もういい、もう一度訊くぞ。平凡な生活から脱したくないか」
「いえまったく」
 もう一度はっきり答えたのに、猫は再び威嚇した。何で。
「人間誰しもこう、一度は注目の的になったり、特別になりたいものだろう」
「私はこの上なく平々凡々な人間でして、それをこの上なく愛しているのです」
 なので脱するなんて以ての外。そう言うと猫は立ち上がり、私の足の周りをぐるぐるしだした。
「解せん、まったくもって解せない人間だ」
「失礼な」
「猫がしゃべるのを普通に流すような図太い神経をしているのに、平凡というその脳内が解せない」
「失礼な!」
 妙齢の女性に図太いと表現するとはなんと教育のなっていない猫ちゃんだ。飼い主は女心のわからない男かおばちゃんだな。
「でもまあ、それくらいのほうがいいだろう」
「何の話?」
「いいからもうおとなしくしてろ」
 な、投げやりな……。
 何なんだ、と思いじっとしていたら、猫が満足げに立ち上がった。
「よし、できた」
「何が」
「足元を見てみろ」
「そう言われると見る気なくなるって言うか、見ちゃいけないと本能が言っている」
「いいから見ろ」
 足に猫パンチされたので、まあ、その可愛さにサービスして、と足元を見ると、何かきらきらしてる。
「何これ」
「魔方陣がうまくかけた。もうすぐだぞ」
「もうすぐって何、って、わわわ!」
 ふっ、と浮遊感に襲われる。まさか、と思うけれど足元には何の感触もない。落ちている、これは確実に落ちている。エレベーターに乗ったようなちょっと気持ち悪い感じがする。それにしても。
「マンホールに落ちるなんて、そんな馬鹿な!」
「そんなわけないだろう馬鹿者が!」







凡人さんと子猫ちゃん







Copyright(c)2005-沢野いずみ, Inc. All rights reserved.