「うっぎゃあぁぁぁぁああぁぁぁああ!!」
 なになになになに!?
 あまりの叫びぶりに驚いてパソコンに頭をぶつけたが、瞬時に立ち上がる。
 今は残業中で、社内に残っている人はほとんどいない。私は今日ちょっとしたミスの所為で残っているだけで、本来ならすでに退社の時間だ。早く帰りたい一身でデータと格闘していた私の耳に急に入った意味不明な雄たけび。驚かない人がいればぜひお会いしたい。
 立ったまま辺りを見回すが、誰もいない。なんだ、まさか心霊現象とかそんなんじゃないだろうな。幽霊だろうがなんだろうが私の邪魔をする奴は容赦しないぞ。
 そろそろとドアへと向かって歩く。もう一歩。さあ、もうドアを開けるだけ。
 ごくり、とのどを鳴らして、ドアへと手をかける。
 が、その前に勢いよく開いてしまったドアから何かが飛び出してきた。しかも私にしがみ付いている。
 何だ本当に幽霊か!?
 びっくりしながらそれを引き剥がそうとするが、はがれない。
 おもむろにそれが口を開いた。
「でででででで、出たんだよ! 杉浦くん!」
 課長だった。
 彼は普段のクールさからは想像できないほど取り乱しており、半泣き状態であった。
「ど、どうしたんですか、課長」
 普段と違う彼に私も少し動揺してしまう。というか、早く離れてくれないだろうか。
「だ、だから、でで出たのだよ!」
「何が!?」
 更にぎゅうぎゅうと抱きついてきた彼に、上司であるということも頭から飛んで叫んでしまった。や、だって痛い痛い痛い離せ。
 課長もそれどころではないらしく、そのままの体勢で離す。
「だ、だからそれはそのアレが!」
「だからアレって何ですか!」
「アレはアレだよ!」
「わかるか!」
「わかってくれ!」
「どうやったらわかるんですか、万年熟年夫婦でもないのに!」
「気持ちだけでもそうなってくれればわかるはずださあわかってくれ!」
「なれるか! 意味不明なことを言わないで下さい!」
「だだだからとにかく出たのだよ、出たの!」
「だからなんですか幽霊ですか!?」
「幽霊なんて非現実的なものが出るはずないだろうが!」
「あなたが取り乱してること自体が非現実的ですよ!」
 ぜーはーぜーはーと二人して息を吐く。第三者から見たら凄まじい光景だろう。あの冷静沈着な課長が部下の女子社員にしがみ付いて泣きそうになりながら叫んでいるのだ。しかもかなりの口論になって。
 ちょっと冷静になってきた私は、おびえ切った課長に話しかける。
「あー……で、とにかく課長は『アレ』から逃げてきたんですね」
「うん」
「で、『アレ』は非現実的な生き物ではないのですね」
「うん」
「……で。結局何なんですか」
 さっぱりわからない。なにより課長がここまでおびえるものが予測できない。
 課長は青い顔のまま口を開いた。
「アレは……」
「アレは?」
「アレは……」
「アレは?」
「アレは……ゴ――ってぎゃああああああ出た出たあぁぁああぁぁ!!」
「痛い痛い痛いですってちょっと離せこの野郎!」
 あまりの抱きつきに私は課長を殴って引き離し、課長は殴られたことよりおびえが勝っているようで、ひたすら震えている。
「何がどこにいるんですか?」
「そそそ、そこ……」
「そこって……」
 課長が指差したのはデスク。
 私はデスクに近寄った。
 そこには。
「……ゴキブリ?」
 デスクにいたにはまぎれもないゴキブリだった。
「名前を出すのも忌々しいその茶色くてテカテカしてて人間が死んでも最後まで生き残る生物と言われているものだよ!」
 震えながら叫ぶ課長。間違ってはいないが、なんだか無駄に長い。彼にとってはこれが『アレ』の名称なのだろうか。
 私は傍にあったいらなくなった失敗書類の束を丸めて、ゴキブリへと放つ。
 スパーン、と実にいい音がなった。
 そのまま失敗書類にゴキを包んでゴミ箱へシュートする。うん、さすが元バスケ部な私。ナイスシュート。内心一人で拍手してみる。
「ほら、課長。もう『アレ』はいませんよ」
 その様子を呆然と見ていた課長はようやく安心した様子で立ち上がると、私の手を握って無敵のスマイルを向けた。
「結婚してくれ杉浦くん!」
「課長も『アレ』と同じ末路を辿りたいんですね」








完璧男は不完全 







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