前触れも何もなく、男は唐突に「何か得られた?」と訊いてきた。
「何かって何?」
 率直に訊ねた私に、にこにこと笑顔を絶やさない男は「何かは何かだよ」と当たり前のように言う。
 私は内心訝しんで男を見たが、表面上はにっこりと微笑んでその顔を見つめた。表面を飾るのはすでに癖のようなものだった。それはこの笑顔を作る男も同じだろう。
 よく言えば人当たりよく、悪く言えば八方美人。私もこの男も、そういう部類の人間であり、それが当然と考えて生きている。一番上手な生き方を選んでいる。
 自分によく似たこの男が、やはり苦手だと再確認する。その苦手な理由が同属嫌悪と呼ばれるものであるということもすでに理解していた。そしてそう思ってしまう自分が自分で悲しく思えた。
 しばらくそうして男を眺めていたが、口を開く兆しが見えなかったので、とりあえず「何も」と答えておいた。その返答に眦を下げた男が憎らしかった。
「そう」
 一言そう告げるので、私は「あなたは?」と逆に訊ねてみた。
「俺? さあ、得られたと感じていないうちは得られてないことになるんじゃないのかな?」
 得られていないと遠まわしに言った男に、私も「そう」と返した。
 一方的に始まった会話は終わったはずなのに男は帰らず、ただ私の目に前に座っている。何をするでもなく窓の外を見ているので、私も視線を窓に移した。
 雲が微妙に出ているが、中々の日差しのおかげか、外には人が多くいた。犬と散歩する老人を見て、老後はボケ防止に犬を飼おうかと、勝手に先の未来を考える。
「罪悪感」
 発せられた声に視線を向けると、男はまだ窓を見ていた。
「を感じたことはある?」
 何にと言わなくても私と男の間ではそれだけで通じる。心ここにあらずと言った様子の男を見て、私はさっきの自分の回答が、この男を存外に傷つけたことを知った。
 苦手な男を傷つけないために慎重に言葉を選ぶ私は、やはりこの先も私のままなのだろうと思う。
「罪悪感を感じたことがないと言えばうそになるけれど」
 言葉を一度切れば、男の目がこちらに向く。
「罪悪感を感じない人間はいないでしょう」
 男に変化は見られないので、そのまま言葉を続ける。
「夫婦は隠し事はないと言うけれど、へそくりだとか子供のことだとか相手への文句だとか、必ず言っていないことはあるはずで、むしろないほうが異常で、ましてやただの友人に素面で接する人間なんて少ないはずだよ」
 男は黙っている。
「つまり何が言いたいかというと」
 男はやはり黙っている。
「人を守るためのうそは吐いてもいいと私は思うよ」
 ましてや私やこの男にとってはもうすでに刷り込みのようなもので、今更変えられない。初めて見たものを親鳥と慕うのと同じように、私もこの男もこの生き方しか知らないのだ。
 表面上を固めて息をしている私たちは、元々生きるためにしていることであるので何か得られるわけではないけれど、結局これが自分なのでそのままで生きていく。
 窓の外にはさっきの老人がまだ犬と散歩中していた。犬のほうは早く行きたいようだけれど、老人がのんびりと歩みを進めるのでそれに合わせている。年をとったら自分もあのようになるのだろうかと思うと、今との正反対さに違和感を感じる。しかしこれもまた人生だと思いながら視線を逸らし、こちらを見て微笑んでいる男に微笑を返した。







仮面たちの内緒話







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