僕の家族は僕と姉と父と母の四人。ちなみに説明した順が僕が優先する人物だ。もっとも優先するのはやっぱり自分だけど、その次は姉さん。姉さんは身体が弱く、学校もろくに行けていない。でもその分努力家で、まだ十一歳なのに、すでに中学二年生の問題を解いていた。そんな頭のいい姉さんは、ほとんど他人と接しないためか、情緒面での成長が遅れていた。
 姉さんはよく絵を書く。よくパズルをする。1人遊びがとても上手であった。ただ、そうなるしかなかったとも言えるけれど。
 僕は姉さんがパズルをはめていくところ、絵に色をつけていくところ、完成までの経過を見るのが好きだった。ただ姉さんを見張るために学校に帰ったら家に閉じこもっていなければいけない僕は、それでも仕方ないと多少の苦痛を感じながら言い聞かせ、そうして姉さんの1人遊びを常に眺めていた。そうしている内に、それが僕の趣味になった。
「英二、一緒にお絵かきしよう?」
 姉さんはよく僕を誘ってきたが、僕はそれを断った。絵を書くのは好きではないし、外でサッカーをするほうが楽しかった。それが望めない現状が、少し憎かった。姉さんは悲しそうに「そう」と言ったのを見て、罪悪感のようなものを感じたが、やはり参加はしなかった。僕はただ姉さんの動く繊細な手を眺めた。病弱な姉の手は、細く白く、綺麗だった。今まで筆以上に重いものなど持ったことのない細い指が、頼りなさげで哀れだった。
 ふと時計を見るともうすぐで夕飯だった。どうせ母は帰ってこない。僕が食事の用意をするために立ち上がると、姉は手を止めた。
「英二、どこ行くの?」
「台所。ごはん今作るから」
「いや、一人にしないで」
「すぐ戻るよ」
「いや、いや」
 うわ言のようにいやだいやだと僕の服を握り締める。僕はため息を吐きながら泣く姉の頭を撫でてやった。少し落ち着いたようだが、それでも僕を放そうとしないどころか、ますます引き寄せて仕舞いには抱きついてきた。仕方がないので姉の背をぽんぽん叩きながらあやしてやる。早く寝てくれ、と願いながら。
 姉が寝息を立てたとき、ようやく僕は解放される。このときが一番幸せに感じる。僕はレトルトのカレーを温め、やっと食事にありつける。美味しいとは思わないが、それでも空腹を紛らわすために食べ続けた。
 朝は姉を起こさないように家を出て、家に帰れば外に出ることは許されず、姉の看護という名の監視をする。自由な時間は学校にいる間と、姉が寝静まった後。それ以外は僕の生活は全て姉を中心に回っている。
 父さんは忙しくて、よくて一週間に一度帰ってくる。母さんは愛人のところに入り浸って不定期に帰ってくる。まだ小学生の子供たちを二人きりで放置するような、あまり会話もしたこともない親を親と呼んでいいのか悩むときもあるが、それ以外に呼び方がないので、僕は彼らが帰ってきたときはできる限り愛想を良くしている。これも上手に生きるために身に付けた術だ。
 母さんと父さんは、帰ってくると真っ先に「絵里奈の様子は?」と聞いてくる。今日も派手な化粧に派手な服で帰ってきた母さんは、姉さんの様子を聞いてきた。
「お姉ちゃんは? 寝てるの?」
「うん、今寝たよ。でも、母さんが帰ってきたってわかったら起きるんじゃないかな」
 僕が言うと、母さんは嬉々として姉の部屋に向かった。どうやら今日は機嫌が良いらしい。その後姿を眺めて、僕は自分の部屋へ戻る。今は深夜の一時。僕は大体普段この時間に寝るが、通常の十歳は何時に寝るのだろうかと考えながらベッドに入った。








 いつものように家に帰ると、姉さんはやはり絵を描いていた。
「姉さん」
 僕が呼びかけると、姉さんはひどく嬉しそうに微笑んだ。
「英二、英二」
 赤子のように僕を呼ぶので、僕は姉さんのそばに腰を下ろす。
「今日は何を描いてるの?」
「世界」
 姉さんはそう答えたが、僕にはそれが世界だとは思えなかった。姉さんが描いたものは手はがき程度の大きさの紙に描かれた絵を言えるのかもわからない、ただ真っ青に染まったものだった。「空?」と訊ねてみたが、姉さんは「世界」としか答えない。僕は姉さんがそう言うならこれが姉さんの中の世界なのだろうと思うことにした。とても純粋な青で描かれたそれは、この家という檻の中しか知らない姉らしい美しいものだった。
「あげる」
 僕がじっとそれを眺めていると姉がにこにこと笑いながらそれを差し出してきた。
「いいよ、姉さんが描いたものだろう? 大事にしなよ」
「あげる。英二にあげる」
 僕は何を言っても無駄だと悟り、その絵を受け取って「後で飾るね」と告げながらポケットに入れた。姉はやけにご機嫌で、始終にこにこしている。
「英二、お菓子食べたい。チョコ」
「昨日食べちゃったからないよ」
「チョコ、チョコ食べたい。英二、お願い」
 お願いお願いと繰り返す声に負けて、僕は「わかった」と答えて出かける準備をする。姉はその様子をじっと見ていた。
「じゃあ、行ってくるね」
 ドアノブを握ると、姉が英二、と呼んだので振り返った。姉は笑っていた。
「いつもありがとう、大好き」
 急に何を言い出すのかと思い、僕は姉をじっと見詰めた。
「絵、大事にしてね」
「姉さん?」
「私の世界は、英二なんだよ」
 だからあの青は英二なんだよ。
 そう告げる姉の顔が綺麗で逃げたくなって、僕は早々にドアを開けて外へ駆け出した。ドアを閉める前に聞こえた声は、まるで泣いているようだった。
「ごめんね」








 帰ったときは家が燃えていて、消防隊が必死に消火活動を行っていた。僕は呆然とそれを見てから近くにいた人に「姉は?」と訊ねた。
「君、この家の人?」
「そうです、姉は、姉はどこですか? なぜ家が燃えているんですか? 救助はどうなっているんです、姉は」
 声を荒げはしないが混乱したまま口を閉じることにできない僕に、「英ちゃん」と声をかけてきた人がいた。隣に住んでいるおばさんだった。
「英ちゃん、絵里奈ちゃんはまだ家にいるの?」
「僕が家を出たときには家にいたので……救助されていないんですか?」
「ええ」
 その瞬間、僕は目の前が真っ白になった。炎はほぼ家を全焼というほどに燃え広がっている。見る限り、姉の部屋はすでに燃えてしまっている。それを見て、僕はそのまま真っ暗闇の中に意識を落としていった。
 目が覚めたとき、父さんが目に入った。いつもキリキリして厳しい父の、初めての泣き顔だった。
「英二、無事か、よかった」
 父さんは僕を抱きしめ、よかったよかったと何度も言った。最後に父に抱きしめられたのはいつだっただろうか。僕はすがるように父さんの背中に腕を回した。
「父さん、姉さんは、姉さんは?」
 僕が尋ねると、父さんはより一層僕を抱きしめ、「死んだよ」と告げた。
「僕のせいだ……」
「英二?」
「父さん、僕のせいだ。あの時、僕が家にいれば、姉さんの異変に気付いていれば、こんな」
「英二、落ち着きなさい」
「僕のせいだ、僕の」
「英二」
 父さんは僕を離して、まっすぐと目を見てきた。
「お前のせいじゃない。これを読みなさい」
 父さんは僕に手紙を差し出してきた。宛名は父さん、差出人は姉さんだった。僕は姉の名を見た瞬間父さんの手から手紙をひったくっていた。震える手で手紙を広げた。そこには、母さんが浮気をしていること、自分の面倒を僕が見ていること、自分がとても幸せで、この幸せの中で死ぬことに決めたと書いてあった。最後には「英二をお願いします」と書かれていた。
 遺書だった。
「誰が悪いわけでもないんだ」
 それから父さんは僕に謝った。何も知らなかったと。母さんが僕と姉さんをちゃんと見ていてくれていると思っていたと。
 すまないすまないと繰り返す父に、僕はまた泣いた。








 姉さんからもらった世界の絵は、姉さんに言ったとおり、額に入れて飾っている。綺麗な青はやはり僕というより、姉さんと言ったほうがいいと思えた。
 あの時は気付かなかったけど、裏にはこう書かれていた。
『私の世界である、英二へ。幸せに』
 最後に見た、姉さんの笑顔と、ごめんなさいと泣き声とともに告げられた言葉が、今も僕の頭から離れない。
 僕は姉さんを疎ましく思っていた。姉さんがいるから誰も僕を見てくれないんだと憎んでいた。だけど、一番僕を信頼し、理解し、愛してくれたのは、姉さんだった。
 あの時の僕の世界は姉さんだった。








青い世界







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