「キモぉぉおおおおおおおぉぉぉおおお!!」

 朝から少女の声が木霊した。



a merman



 何だ、この目の前にいる物体は。
 いや、顔は覚えがある。自分の10歳年上の義理の兄のはず。そう、顔は。
 明菜は頭がクラクラした。ああ、人間本当に許容範囲を超えると現実見なくなるんだ。そして今すぐ駆け出したい衝動に駆られるんだ。
 実際私は今すぐ駆け出したい。
 目の前の物体が見えない所まで。
「朝からうるさいぞ。近所迷惑を考えなさい」
 お前は私の迷惑を考えろ。
 普段ならそう叫んでいるが、今の明菜には物体から目をそらすことで精一杯だった。
 何だろう、自分は幻を見ているんだろうか。そうだ、そうに決まってる。病院に行こう。精神科、精神科だ。いや、眼科にも行っておいたほうがいいか。きっと目もイカれてる。
 もうとにかく目の前にイカれた生物を消してくれるならどこでも行く。
「明菜、いい加減こっちを見なさい」
 無理。
 絶対無理。
「明菜」
 見るな、見たら精神が滅ぶ。もう病院に行っても修復できなくなる。
「あーきーなーちゃーん」
 キモい。呼ぶな。
「明菜の秘密ベストスリー発表」
 秘密なんかない。黙れ。
「明菜が最後におねしょしたのは小学2ね」
「くたばれこの童顔中年!」
「ぶぐっ!……良い回し蹴りだ。ちょっとパンツが見え」
「よし、やっぱ拳勝負か」
「ぶばぁ!……ごめん、兄ちゃんが悪かった。もう言わないから、明菜の秘密」
「はじめから言うな……っていやぁぁあああ!キモい!」
 せっかく見ないようにしていたのに、兄の口車に乗せられてばっちり見てしまった。兄の顔以外。ああああああ、キモい!それ以外ない!キモい!
「キモいとは失礼だな!こんなに愛らしいのに」
「どこがぁ!?」
 どこをどう見ても明菜には愛らしいなんて言葉は見つからず、頭に浮かぶのはキモいキモいキモいの三文字だけ。
 確かに女の子がそれをつけてれば、愛らしいかもしれない。マニア受けするかもしれない。
 だが、目の前には、紛れも無い男である兄だ。似合わない。気味が悪いくらいに似合わない。
 明菜は額を押さえながら訊いた。
「お兄様、それは通販か何かでお買いになられたのでしょうか」
「ううん、朝になったらなってた」
 もう一発お見舞いしていいか。
 つい拳を握ってしまったが、兄が必死の形相で首を振る。ちなみに身体は見ないようにしている。顔もできれば見たくないけど。
「本当だって!俺そこまで変態じゃないから」
「それは少しは変態って意識があるってこと?」
「……へへ」
 へへじゃねえ。
「でもありえないでしょ、朝になったらあったって」
「でも現実にこれ取れないんだ」
 これ、と指で本来なら足であった物体を指差した。現在は青いうろこがついている。先っぽには尾ひれもある。


 そう、兄は人魚になっていた。


「何で男が人魚?何でお前が人魚?」
「男が人魚でもいいじゃないか」
「さっきから思ってたけど、兄さん、あんた結構その足気に入ってるでしょ」
「……へへ」
 もうくたばってしまえ変態。
「ちなみに私の部屋までどうやって来たの?」
「跳ねて」
 こうやって、と兄はその足で綺麗にぴょんぴょん跳ねて下さった。
「キモぉぉぉおおおおお!」
「そう言うと思ったよ。吐きそうな顔してくれてありがとう」
 どういたしまして。
 心の中でそう返事をして明菜は座っていたベッドへ再び身体を横にした。
「ちょっ、どうして寝るんだ!」
「だって別に困ってなさそうだもん。今日休日だし。私はまだ眠いし」
「ひ、ひどい!」
「朝早くから起こして現実離れした身体になっている兄のほうがひどくない?」
 明菜の言葉に兄はうっ、と呻いた。少しは自覚があったらしい。
 明菜は続けて言う。
「もう神頼みでもしてみれば。心の中で祈ってみな」
「わかった!やってみる!」
 え、納得しちゃった!?
 明菜は思わず兄を見てしまったが、何よりその笑顔に驚く。何その迷子の子供がやっと道を見つけた様な笑顔。お前もう20代後半だろうが。年相応の笑顔をしろよ。
 そんな心の内もいざ知らず、兄は実に元気に言った。
「そうだな!もう現実離れしすぎてるし、こういうときの神頼みだよな!」
 神様仏様大魔王様。どうか元に戻して下さい。と兄は声に出して言っている。間違ってる。何かひとつ間違ってる。
 そう思ったが、もう突っ込む気力もない明菜は、そのままベッドへ潜り込む。
 後ろで何かが光った。
 ははははは今のってまさかまさかなあ嘘だろ。
 気合を入れて後ろへ身体を向けた。


「あ、直った」





もう許容範囲を超えている。






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